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伊勢遺跡の特徴
伊勢遺跡の面積は約30万uで、弥生時代後期としては 国内最大級の遺跡です。
規模の大きさだけではなく、大型建物が計画的に立ち並び、祭祀空間を持つ遺跡は、この時期、他では見られません。建物には中国に源流を持つ当時の最新の建築技術が用いられています。また、遺跡からの生活遺物もほとんどなく、ここが、特異な場所であったことが推定できます。
多数の大型建物と優れた建築技術
【多数の大型建物群】
弥生時代の大型建物は一般的には床面積が40u程度以上で、太い柱を持つ建物を指します。伊勢遺跡ではこのような条件を満たす大型建物が12棟も見つかっています。
  大型建物がこれだけ集中して見つかる遺跡は他にはありません。
弥生時代後期に限ると、近畿地方ではこのような大型建物は、伊勢遺跡群(伊勢・下鈎・下長)の3遺跡に集中しています。これらの遺跡は境川(野洲川支流)左岸の2.5km範囲に分布していて、全国的にみても特異な地域であったことが分かります。
【さまざまな建築様式】
伊勢遺跡では大きく見て5種類の大型建物が発見されており、それぞれが、特別の機能を持っているようです。下の図は、柱穴から推測される建物の想像図です。この他、平地式(地面の上に直接建てる)の棟持柱付き建物も存在したようです。これらの建物は、
  伊勢神宮の神明造りや出雲の大社作りとよく似た様式のものがあり、先駆的な建物として関連性が注目されます。
独立棟持柱付き建物(図左)は、次に述べるように、ほぼ同じ規格のものが円周上に6棟が配列されています。こうした建物は、銅鐸や弥生土器にも描かれており、祭祀に関わりを持つと考えられます。
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独立棟持柱付き建物
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楼観
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屋内棟持柱付き建物
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大型竪穴住居
(CG制作:小谷正澄氏)
【他では見られない優れた建築技術】
大型竪穴住居は、一辺約14mという大きさで、屋内に棟持ち柱を持っています。その床はきれいな粘土を叩きしめた後、焼き固めています。このような焼床は他には例がなく、中国や朝鮮に類例が見られ、湿度防止のための工夫と思われます。
しかも、竪穴の四周の壁には焼き固めた古代のレンガが並べてあり、国内で初めてレンガが使われた構造物です。国内最古の焼レンガです。
 いずれも中国に源流を持つ、当時の最先端建築技術です。
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焼き固めた床
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焼レンガの基礎

特異な建物配列
このような大型建物が、円周と方形の組合せで計画的に配列されており、他所では見られない配列です。
弥生時代に方形区画があることも特徴で、ここが特異な場所であることが分かります。
【柵で囲われた方形区画】
遺跡中心部には、二重の柵の内側に大型建物が整然とL字型に配列した方形区画と呼ぶ特殊な空間が存在します。床面積86uのとりわけ大きな棟持柱付き建物を中心に、3棟の棟持柱をもつ建物が西側に配列されています。
それに隣接して総柱式で、一辺9mの正方形の大型建物が検出されていますが、佐賀県吉野ヶ里遺跡で発見されているような楼閣のような施設と見らます。
巨大な集落遺跡の中心部に、柵で方形に区画された中に大型建物を整然と配置していることがわかる遺跡であり、全国的にみても殆ど類例を見ません。
【円周上に配列された多数の建物】
方形区画や楼観を中心にして、半径110mほどの円周上に独立棟持柱付き大型建物が7棟発見 されています。計画的に円周配列したことが判ります。これらの独立棟持柱付き建物は、床面積は約40uでほぼ等間隔に建っており、伊勢遺跡の
存続期間のなかで、計画的に円周上に建設されていったと推測できます。
このように、円周上に配置された建物群は、他に例がなく、この遺跡だけの特殊な遺構といえます。

日常品がほとんど出土しない
守山市にある弥生時代の集落跡からは、多くの生活用品が出土しています。下之郷遺跡の環濠からは、当時の人々の生活や環境が復元できるような、遺物が多量に出土しています。
しかし、伊勢遺跡からは建物跡はたくさん見付かっているものの、日常用品の遺物はほとんど出土していないのです。生活臭がないのです。周囲に掘られた大溝や区画溝からもほとんど出てきません。伊勢遺跡が廃絶されるときにも、きれいに片づけて清掃したように思えてなりません。この事実は、伊勢遺跡の特殊性を裏付ける大きなヒントです。
多くの大型建物、その特殊な配列などから、伊勢遺跡の東側は祭祀空間と考えられます。一般の人々が日常生活をおこなっていたとは考えられません。
伊勢遺跡の造営当時、多くの建物や大溝の工事に関わった大勢の人々がいるはずです。生活雑貨やごみなどはどのように処理していたのでしょう?
ここは祭祀空間であり神聖な場所であったとしたら、ごみなど出てこないでしょう。どうやら、そんな場所であったようです。

突然現れて突如廃絶される遺跡−−歴史的意義
弥生時代に栄えた大規模集落には、九州の吉野ヶ里遺跡や、近畿の池上曽根遺跡、唐古鍵遺跡などがあります。これらの遺跡は、弥生時代の早期から後期まで同じ場所に継続して生活が営まれます。
これに対し、伊勢遺跡は弥生時代後期半ばに、何もない扇状地に突然現れて巨大化し、後期末にはその使命を終えます。それは、紀元1世紀後半から2世紀末と考えられ、祭祀空間として栄えるのは 100年程度の短い間です。
伊勢遺跡が出現する紀元1世紀中ごろの日本列島には百余のクニがあった時期です。倭国大乱があって国が乱れます。各地の拠点集落は解体して小規模な集落が散在するようになります。鉄が中国よりもたらせられ、九州より中国・近畿へ急速に広がって行く時期でもあります。鉄の入手ルートをめぐって強い危機感があったことでしょう。西日本から中部地方にかけて、いくつかの有力な地域政治勢力が競合していました。このような社会が大きく動揺していた時期に、突如出現する伊勢遺跡は、より大きな政治組織を必要とした各地のクニが共同で生み出したものと考えられます。
また、伊勢遺跡の衰退期は、『魏志倭人伝』に記されたように、30余国が属する邪馬台国を都とする倭国の形成期、という歴史的な転換点にあたります。それは、卑弥呼が擁立され倭国大乱が収束した時期です。
伊勢遺跡の衰退はこのような歴史的な転換とも何らかの関わりがあったことは想像に難くありません。
卑弥呼擁立をもって伊勢遺跡の役目は終わり、祭祀を通じた政治システムは、卑弥呼に引き継がれた、と考えることもできます。
すなわち、伊勢遺跡の歴史的な役目は、初期ヤマト政権の成立に先立ち、地域の政治的統合や安定に関わるものであったと考えます。

古墳時代の「水の祭祀」につながる導水施設
伊勢遺跡の区画溝より取水する導水施設が発見されていますが、古墳時代の服部遺跡や纏向遺跡で発見されている浄水施設と同様の施設とみられます。古墳時代には王の祭祀として居館や古墳の形象埴輪に表現されていますが、伊勢遺跡ではクニの政治や祭祀に係わる重要な施設として先駆的に導入されていたと考えられます。
これが、纏向遺跡の例のように初期ヤマト政権の祭祀として受け継がれ、古墳時代には首長の祭祀として儀礼化すると考えられます。
伊勢遺跡の導水施設は、王が執り行う政治・祭祀に係わる主要な施設とみられます。


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