ヘッダー画像
 出土遺物
伊勢遺跡の特徴の一つが「出土遺物がとても少ない」と言うことです。言い換えると、多くの遺構があるにも関わらず、「生活臭がほとんどしない」といえます。このことから、伊勢遺跡が、祭祀空間であり生活空間ではなかったのではないか、という遺跡の性格をうかがい知ることができます。
ただ、この少ない出土物からも貴重な情報が得られます。
ほとんど出ない遺物
伊勢遺跡の大型建物周辺や大溝、区画溝からはほとんど遺物が出てきません。時代は少しさかのぼりますが、同じ守山市にある弥生中期の下之郷遺跡と比べると出土土器は圧倒的に少ないのです。
また、同じ守山市内にある伊勢遺跡と同時代の服部遺跡の溝からは多量の土器や木器が出ています。両遺跡と比べてみると、伊勢遺跡の遺物は極端に少ないと言えます。
当時、遺跡の南に川幅30mくらいの大きな河が流れていました。竪穴住居が見つかっている遺跡西部に近い河の肩口には多量の土器が埋まっていました。このことから、伊勢遺跡には大勢の人が住んでいたことは確かです。
これらのことを考え合わすと、当時の人が、大溝や区画溝に物を捨てないよう意識して管理していたとしか考えられません。
大溝を掘ったり、大型建物を建てたりするとき、大勢の人たちが動員されたはずですが、それらの作業に従事した人たちも溝に物を廃棄しなかったということです。
遺跡の東側は祭祀域と推定されており、例え建設工事中とはいえ神聖な場所には物を廃棄しなかったと思われます。

大型建物跡からも、遺物がほとんど出ません。大型建物が廃絶した跡地はきれいさっぱり整理したと思われるほどです。
壊されたり焼け落ちたりした痕跡はありません。
大溝
 遺物がほとんど出ない伊勢遺跡の大溝

 【参考】
下之郷
 多量の遺物がでる下之郷遺跡の第1環濠
五角形住居からの予想外に多量の土器群が
伊勢遺跡の西側から人々が住んでいた竪穴住居がたくさん見付かっています。これらの跡地から土器が出てくることがあります。出ると言っても僅かな量で、破片がほとんどです。
しかし、例外的に、ある五角形住居から多くの土器が出てきました。
竪穴住居で一家が使う土器の数としては個数が多く、しかも、完形品(土器全体が復元できるもの)がほとんどです。
他の竪穴住居には土器片はほとんどなく、ここだけに多量の良品が残されているのはなぜでしょうか?
推測ですが、五角形住居は大型建物建設のための作業小屋で、建設が終わった後、作業員が使っていた土器をまとめて置いて帰った・・とは考えられないでしょうか? だから完形品が多く残された・・・。
真実は判りませんが、その時点で使われていた土器一式が残されていました。このような土器は、一括土器と言い、土器の形式や飾りからその時代を知る基準となる、考古学上、貴重な土器です。
写真
出土した土器群
矢印 写真
復元された土器
川の肩口は土器の捨て場?
伊勢遺跡でただ一個所、土器が多量に出てくる場所があります。当時、遺跡の南限に流れていた川幅20m、深さ2m程の河の肩口です。
遺跡の西側に多くの竪穴住居が見つかっていますが、住居区域に近い所で河は流れの向きを変えています。
丁度、その川の肩口あたりから、壷、甕(かめ)、鉢、高杯、器台など日常使う土器が出ています。壊れた手焙り土器もありました。
この区域は、祭祀域からは離れており、また、竪穴住居圏に近ことから、土器の廃棄場所とされていたようです。
底の方には木製品も出てきました。恐らく、河の肩口は当時の人たちのごみ捨て場であったのでしょう。有機物は腐敗したり流されたりして、土器が残されたと考えられます。
河の肩口

写真

大型建物からの出土物
伊勢遺跡の大型建物跡からは、ほとんど遺物が出てこないと述べました。しかし、例外的に出土物が出るケースもあります。また、ほとんど遺物が出ないと言っても、破片が少し出てきます。少ししか出ない土器片 からもいろいろなことが判ります。
ここで、すこし詳しく説明します。
【大型竪穴建物からの出土品】
王の「居所」または有力者の集まりの場ではないかと考えられている大型竪穴建物から、焼レンガや壊れた土器の破片が床から幾つも見つかっています。
この土器片から、大型竪穴住居の年代が推測できます。
【大型建物(祭殿など)からの出土物】
大型建物の当時の床面からは、ほとんど土器やその破片は見つかりません。しかし、柱穴からは、土や礫(小石)に混じって土器の破片が見つかります。これらの土器の破片からその土器の使われていた年代が推測できるので、わずかと言え重要な出土物です。
柱穴から見つかる土器の破片は次のようなものです。

一つには、大きな穴を掘って柱を立てるとき、穴の底には柱が沈み込まないように礫(れき:小石)や土器の破片を敷き、周辺に掘り上げた土や周辺にある土を埋め込みます。

建設工事
もう一つは、後になって建物を取り壊し、柱を抜いた後の空間に、抜いた時期の周辺の土や当時の土器の破片を入れて、埋め戻すものです。

建設工事

これが、後世になって見つかります。これら2種類の出土土器の作られた時期から、
その建物が建てられた時期と廃絶した時期が推測できるのです。
わずかな破片とは言え、年代考証にはとても重要なものとなります。


【大型建物(SB-4)からの出土物】
写真 祭殿と推測している大型建物のうちSB−4では、柱根が残されていましたが。柱根付近の上部から炭化米と炭化木片が出土しました。いずれも建物を廃棄する際、またはその後に埋まったものと考えられます。状況から判断して、建物廃棄にかかわる祭祀に関係する可能性があります。
その他の出土物
【古墳時代初頭の遺物】
伊勢遺跡で大型の掘立柱建物が廃絶した後、遺跡は急に衰退するのではなく、跡地に比較的大きな竪穴住居が数多く建てられます。大型建物の役目が終わったのちも古墳時代初頭まで、人々は同じ場所で集落を営んでいました。
その集落もやがて衰退していくのですが、ちょうどその頃、鏡を割り玉と共に埋める祭りが行われました。大型建物 SB-8から少し離れたところで見つかりました。
写真 写真

【手焙り土器】
写真 そのほか、近江型土器の鉢の上に覆(おおい:フード)が付いた、手焙り用火鉢に似た手焙り型土器が数点出土しています。
伊勢遺跡の出土品ではないが、覆の裏に煤(すす)が付いたものがあり、香を焚いたり、祭祀に用いたのではないかと考えられます。
この土器は、近江から始まり、周辺地域に波及していきます。換言すれば、近江から始まった祭祀の形態が広がっていくと言うこともでき、野洲川下流域の重要性を示すものです。

mae top tugi