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 伊勢遺跡群
伊勢遺跡に隣接するように、下長遺跡、下鈎遺跡があり、同じような大型建物が建っていました。伊勢遺跡とは異なる機能・役割を果たしていたようで、複合集落として野洲川流域を統治しただけでなく、近江一円、広くは近畿地方に影響を与えるクニであったと考えられます。
伊勢遺跡群とは
伊勢遺跡群 弥生時代中期から後期前半は、野洲川左岸の遺跡群では環濠集落を次々と地点を変えながら造営される「環濠集落の時代」と言えます。それらの環濠集落が衰退した後、旧境川(野洲川の大きな支流)左岸に展開する伊勢遺跡、下鈎遺跡、下長遺跡は独立棟持柱付き大型建物を共有し、弥生時代後期から古墳時代初頭にかけて発達を遂げる一つの遺跡群・大型建物の時代として捉えることができます。
伊勢遺跡では湖南地域の政治・祭祀の中枢施設があり、下鈎遺跡では小銅鐸や銅鏃、銅滓(かす)が出土していて、金属器の生産が行われていた可能性があります。下長遺跡では古墳時代初頭の準構造船の部材が出土しているほか、北陸・東海・山陰・近畿・瀬戸内地方の土器が集積されていて、野洲川や琵琶湖を介して、他地域と交易を行う玄関口として機能していたとみられます。
すなわち、伊勢集落が政治と祭祀を、下鈎集落が工業を、下長集落が商業を分担する「機能別都市構成」がなされていたと考えられます。
これら3つの集落は約2.5km四方に墓域をはさんで微高地上に分布するほか、野洲川の網の目状の河川によってもつながりあっていたようです。 大型建物の木材の運搬も20〜30m 幅の河川交通を利用したと考えられ、それぞれの遺跡は河川にはりつくように発達をとげています。
弥生後期後半代の近江型土器(受口状口縁甕)をはじめとする在地器種の分布から推定されるクニの範囲は、現在の野洲市、守山市、栗東市にまたがる領域ではなかったかと推定されます。その中心部にこれら3つの遺跡が近接して栄えます。
邪馬台国時代にあたる2〜3 世紀に発達するこれらの遺跡群を、弥生中期社会に代表される環濠集落解体後、二次的に再編成されたクニの中枢部として「伊勢遺跡群」として捉えていきます。
3つの集落の機能を考えるとき、下長遺跡、下鈎遺跡は縄文時代ないし弥生時代中期から発展しているのに対し、伊勢遺跡は弥生後期中頃に突如出現することを、歴史的背景として考慮する必要があります。


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