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中心部の建物と方形区画
伊勢遺跡の東半分に大型建物が集中して建てられており、ここが政治祭祀空間であったと思われます。
その中心部には、柵に囲まれた大型建物が方形に配列された特別な区域が存在しています。
中心部の発掘状況
伊勢遺跡の範囲は、東西700m、南北450mと、東西方向に長い広がりとなっています。
これまでおよそ35年間に120次近い発掘調査が行われてきましたが、西半分には現在の伊勢町の集落があって発掘はあまり出来ていません。東半分は田んぼが広がっていたため、土地開発に伴って発掘調査が行われてきました。
この結果、遺跡の東半分に大型建物が集中して建てられており、ここ遺跡の中心部であったと推測出来ました。
発掘状況

中心部の発掘状況(着色部が調査済の部分)

方形区画と大型建物

柵で囲われた方形区画に整然と配列された建物

祭祀空間の中心部には、二重の柵の内側に大型建物が整然とL字型に配列した方形区画と呼ぶ特殊な空間が存在しています。床面積86uの大型建物SB-1を中心に、3棟の棟持柱をもつ建物が西側に配列されています。SB-1の西側には、床面積57uの大型建物SB-2がありますが、柱穴の状況から高床式ではなく、平地式の建物と推測されます。
SB-2の南側には、近接棟持ち柱付きの建物が見つかっており、出雲にある神魂神社の建物構造(大社造りる)によく似ています。さらにその南側には、小規模ながら棟持ち柱のある建物SB-3があり、祭殿に付属する倉庫ではないかとみています。
このように、南面する前庭を囲むように建物が配置されており、後の豪族居館や都城中心部の構成につながるものと考えられ、政治やまつりを執り行う中枢施設と考えられます。
この発見により近畿地方で初めて、方形区画の中に大型建物を整然と配列した特殊な施設が存在することが判明し、学術的にも重要な遺跡です。

発掘状況
方形区画と建物
建物の形式と推定される用途
・SB-1 主殿 2間×4間 86u
    高床式建物

・SB-2 副屋 1間×5間 57u
    平地式近接棟持柱付き建物

・SB-3 祭殿 1間×3間 49u
    近接棟持柱付き建物

・小型倉庫  1間×2間 17u
    独立棟持柱付き建物

 注:ここでいう「間」とは、柱と柱の
  間(あいだ)を指し、尺貫法の間
  ではない

発掘調査の結果、SB-1に先行して梁行1間×桁行2間、床面積26.8uの大型の柱穴をもつ建物SB-11が存在することが明らかになっています。伊勢遺跡が拡大していく過程で、大きい建物に建て替えられたようです。
二重の柵列は、方形区画の北側で東西に約10m、西側には南北方向に約30mの長さで伸びており、柱穴の間隔は3m〜3.5mで、建物とほぼ平行に真っ直ぐに並んでいます。柵の高さは約3mあったと推測されます。

大型建物(SB-1)の柱穴

これらの建物の柱穴は長径2m〜2.7m,短径約0.8mの長楕円形をしており、深さは1.2〜1.4mにおよぶ大きなものです。柱穴の断面形状は長い斜路となっており、柱穴底の規模形状からみて直径50cmを越える大きくて長い柱が使用されていたと推測されます。柱根は残存しておらず、地山ブロックが多量に混じっており、抜かれた後、埋めもどされたと考えられています。
SB-1柱穴
SB-1柱穴の配置と大きさ
SB-1柱穴
SB-1柱穴

コーナの柱穴
コーナの柱穴(正面と横)

コーナの柱穴
棟持柱の柱穴(正面と横)


CGによる復元想像図
方形区画と建物群を復元したCG図を示します。柱穴の数や位置、形状、穴底の様子、地面に切った溝などから構造を推測しています。地上部分は遺物として残されていないので、銅鐸や土器、家屋文鏡に描かれた建物の形状を参考にしています。
発掘状況
方形区画の建物の復元想像図(CG作成 小谷正澄氏)


  【参考とされた建物形状】
建物形状
家屋文鏡、土器絵画、銅鐸に現れた建物形状

楼観

4本の内柱を持つ高層の建物

方形区画内のSB−1の東方30mの地点で、3間×3間(9mX9m)床面積81uの大型建物SB-10が見つかりました。柱穴距離は約3mで、総柱式建物と考えられます。この建物は、正しく各辺が東西南北を向いて建てられており、柱穴は円形及び楕円形で直径80cmから120cmもあります。この3間×3間に対応する外柱12本に加え、中央部には4本の内柱があります。
この建物の特徴は建物の外側の柱穴間に布掘り溝(板などの壁材をはめ込む溝)を持つ点です。この溝は幅25cm、深さ20cmで、平面・断面観察の結果、溝の外側に杭状に板を打ち込んだ痕跡があり、板塀状の施設を柱間に施していたと考えられます。

吉野ヶ里の楼観と同じ構造

佐賀県吉野ヶ里遺跡でも3間×3間で、平面形が正方形を呈する建物が発見されており、楼観のような施設であったと考えられています。このことから、伊勢遺跡のSB-10も、床形状や柱構成から判断し、吉野ヶ里遺跡と同様の楼観と考えられます。SB-10は、方形区画内の大型建物SB-1とSB-2の東側延長上に配置されており、方形区画とともに伊勢遺跡の中心部を構成する建物であったとみられます。
SB-10の下層にも井桁状の溝を伴う建物SB-13が存在しています。SB-10に先行する建物とみられ、2間×2間(4.5m×4.0m)床面積18uの総柱式の建物です。
SB-13とSB-10は規模の点で異なるが、方位を同じくする総柱式建物であり、方形区画内の建物群とは異なる機能をもつ建物で、楼閣状の建物が、二時期にわたり同一地点で建て替えられていたことがわかります。伊勢遺跡の中心部を構成する重要な機能をもつ建物です。

SB-10
楼観の柱穴
(後世の竪穴住居で一部が壊されている)
SB-10
楼観の想像図(画 中井純子氏)

卑弥呼の居所
方形区画の建物群の持つ意味
伊勢遺跡では、建物群が南北方向に揃えて方形に配列されていることが確認されました。祭祀・政(まつりごと)をおこなったと見られるこれらの建物を、集落の中でとくに区別するために方形に柵を巡らせたのでしょう。
中国の魏志倭人伝には、卑弥呼が住んでいた場所を「宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す」と記述しています。伊勢遺跡の方形区画の様子は、これとイメージが重なる構成となっており、当時の「王」が祭祀を行ったり住んでいた場所と言えます。
魏志倭人伝によれば、当時は30余国が存在していましたが、伊勢遺跡は近江に存在していたクニの中心だと考えられます。

魏志倭人伝の卑弥呼の居室の記述部分 ⇒

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