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 伊勢遺跡はどんな遺跡?
遺跡の発見と広がり
伊勢遺跡は、滋賀県守山市伊勢町、阿村(あむら)町、栗東市野尻(のじり)にかけて 広がる弥生時代後期の大規模遺跡です。東西約700m、南北約450m、面積約30haに及び、弥生時代後期の遺跡としては、国内最大級です。
昭和55(1980)年、個人住宅の建設に伴い調査した結果、弥生時代の溝や柱穴が地下から見つかり、この地に弥生時代後期の遺跡があることがわかりました。最初に発見された町名から「伊勢遺跡」と命名されました。
昭和56年度には、弥生時代後期の五角形住居を含む多数の竪穴住居、古墳時代前期の方形周溝墓8基が検出され、現在の伊勢町を中心に大規模な弥生時代後期の集落遺跡が存在することが推測されるようになりました。 その後も五角形の平面形を呈する竪穴住居がいくつも検出され、滋賀県内では特異な内容をもつ遺跡として注目されました。
平成2年、平成4年度には、後に大型建物と判定される柱穴が発見され、平成7年にはそれが弥生時代の独立棟持柱付き大型建物であることが判りました。その後の調査で、遺跡の中心部の建物群と判りました。
平成5年から13年にかけて、遺跡の周辺部にも大型建物が次々と見つかります。それらの建物は同じ規格で造られており、しかも円周上に中央に向かって、等間隔に配置されていました。これも全国的に注目され驚きを持って迎えられました。
近畿地方では、弥生中期に大規模環濠集落が栄えましたが、後期になると各地の拠点的集落は解体していき、小規模な集落が散在するようになったと考えられています。そのような時期に、大型建物を擁する大規模集落がこの地に突如現れたのです。、
その後も、さまざまな形式の大型建物が計13棟も発見されており、倭国(ヤマト王権)の形成を考える上で、全国的にみても非常に貴重であることから、平成24年1月24日付で国史跡に指定されました。

伊勢遺跡

空から見た伊勢遺跡

写真は伊勢遺跡を北側から眺めた航空写真です。(上の地図とは南北反対)
遺跡の範囲は、東側(写真では左側)は幹線道路、西側(写真では右側)はJR東海道線の挟まれた範囲です。南限(写真の上側)・北限は、現在の伊勢町のある範囲にほぼ一致しています。
その範囲内で、東側には田畑が広がりそこから大型建物が発見され、祭祀空間と考えられています。西側には、現在の伊勢町集落があり、その外縁から弥生時代後期の竪穴住居が多数発見され、当時の人たちの居住空間と思われます。偶然ながら、弥生時代と現在の人たちの居住空間が重なっています。
航空写真
  (航空写真 寿福写房)

周辺の遺跡との関わり
伊勢遺跡の周辺には、同時期ないし少し前後する弥生後期の遺跡がいくつかあります。
同時期に併存した遺跡の間には、何らかの機能分担があったと想像できます。
南西側にある栗東市の下鈎遺跡から大型掘立柱建物が3棟見つかっており、青銅器の生産を行った遺構も見つかっています。伊勢遺跡の北西側には下長遺跡があり、弥生中期から古墳時代前期にかけて栄え、首長の居館や大型建物が建てられていました。
これらの3つの遺跡は、2.5kmの範囲に併存しており、異なる役割を果たしていたと考えられます。この遺跡群はヤマト王権の出現に果たした役割を探ることのできる貴重な遺跡群といえます。

周辺遺跡
伊勢遺跡が栄えた年代
野洲川流域には、縄文時代の遺跡から弥生前期・中期・後期の遺跡が数多く存在していることがわかっています。
このような歴史の流れのなかで、弥生中期には、下之郷遺跡が巨大な環濠集落として出現し、それが衰退した後には隣接する環濠集落、ニノ畦・横枕遺跡が栄えます。 しかし、これらの環濠集落も弥生時代後期初めには衰退して、小さな集落が散在するようになります。
このような状況は、野洲川流域だけではなく、近畿地方全体としてもみられるものです。弥生後期になると各地の拠点的集落は解体していき、小規模な集落が散在するようになったと考えられています。そのような時期に、大型建物を擁する大規模な遺跡がこの地に突如現れたのです。
実年代としては、紀元1世紀末から2世紀末にかけて栄えていたと考えられます。
古代中国の歴史書『漢書地理志』に、「この頃、倭国、分かれて百余国・・」と書かれている時代(紀元前後)の少し後に出現し、『魏志倭人伝』に記された30余国が属する倭国の形成期に衰退していく年代です。



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