ヘッダー
大型建物の発見
平成2年、大きな穴が見つかります。後に、大型建物と判った柱穴でしたが、当時は誰もが「まさか?」と思った大型建物の存在が分かった第一歩でした。
大きな土抗が・・
柱穴 平成2年、伊勢遺跡の発掘も第18次を数えるに至っていました。弥生時代後期から平安時代、鎌倉時代の遺構・遺物が出ていましたが、あまり注目されるようなものはありませんでした。
第18次発掘でも、弥生時代後期の小型倉庫と思われる建物跡や古墳時代の竪穴住居などが出土していました。
それと、大きな土抗(どこう:竪穴)が見つかっていました。発掘現場の北寄りの7m×3mの範囲に4つもありました。幅は約1m、長さは約3m、断面は斜めの階段状の変わった形になっており、一番深い所が1.4mで、土坑としても変な形です。
その穴が何なのか、その時はまだ判っていませんでした。
なんでここに大型建物が?

大型建物の柱穴だった

方形区画 2年後の平成4年、第18次の北側に隣接する場所の発掘が始まりました。第21次発掘です。そこからも、同じような大きな穴が次々と見つかり、その配列から掘立柱建物の柱穴だと推測されるようになりました。
2年前の第18次発掘につながる柱穴が見つかり、一つの建物(SB-3)であることが分かりました。さらに、その北側にはもっと大きな建物(SB-1)が出てきました。それも独立棟持柱付きの特殊な構造の建物です。
その当時、弥生時代の近畿地方にはこのような大型建物は無かった、九州にはあったかもしれない・・・と考えられていたのです。
近畿の考古学者は「大型建物かもしれないが、奈良時代以降の建物だろう」という意見でした。大型建物というだけでなく、南北に方位を合わせ、建物が方形に配列されている。しかも、それを取り囲む柵列までが見つかっています。弥生時代にこのような計画性のある建物があるとは考えられなかったのです。
何もかも、当時の常識を超えていたのです。

近畿でも大型建物が存在した

同じ平成4年、伊勢遺跡の南西1.2Kmにある同時代の下鈎遺跡(栗東市)からも独立棟持柱付き大型建物が発見されました。発見当時、その規模の大きさから奈良時代の建物とみられていましたが、出土土器や柱材の年輪年代測定により、弥生時代後期の建物と判明しました。
当時、新聞にも報道されましたが「なぜ滋賀に大型建物が?」という論調でした。
その後、大阪の池上・曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡などからも次々と大型建物が発見され、近畿地方の弥生集落にも大型建物が存在することが判明したのです。弥生時代の歴史研究上、重要な発見でした。
伊勢遺跡からは、その後も大型建物の発見が相次ぎます。その棟数と計画性のある配置は他の遺跡では見られず、伊勢遺跡の特異性が際立っています。




mae top tugi