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 下鈎遺跡
伊勢遺跡の南西、約1.2kmの所に下鈎遺跡があります。弥生時代中期に環濠集落が形成されますが、後期の初めには解体し、周辺へ分散します。後期後半には再び大型建物を築造し、青銅器生産を行う集落として出現します。
伊勢遺跡と共に野洲川下流域の「クニ」の中核を占める集落となっていたようです。

お知らせ
【下鈎遺跡のHPを公開しました】
H30年12月1日 下鈎遺跡の詳しいホームページを公開しました。
詳細はこちらから ⇒ 下鈎遺跡 ホームページ
下鈎遺跡の概要

 弥生中期の遺跡の様子

1〜2条の溝に囲まれた環濠集落を形成しています。環濠は幅1.3〜3.5m、深さ0.5mで直径約400mの規模で廻っています。掘立柱建物や竪穴住居からなる居住区、覆屋(おおいや)と考えられる建物の中に導水施設が見つかっています。ここからは、祭祀に使ったと思われる、日本で最小の銅鐸が出土しています。
川跡からは、銅釧や銅鏃、玉類などが出ています。

下鈎遺跡

 弥生後期の遺跡の様子

中期環濠集落の北西に大型建物4棟を擁する集落が現れます。そのうち2棟は独立棟持ち柱建物で、1棟は柱根が残されていました。その一方、竪穴住居は見つかっていません。
大型建物の周辺の河川跡からは、青銅製品、銅残滓(どうざんさ)、日本各地から集まってきた土器がたくさん見つかっています。

下鈎遺跡

独立棟持柱付建物
下鈎遺跡では、大型建物が4棟出ていますが、建物跡が完全に残っているのは、独立棟持柱付き建物が2棟です。あとの建物は一部が、発掘範囲外であったり、後世の河で破壊されたりしており、全貌は判りません。
大型建物1は、梁行(はりゆき)2間、桁行(けたゆき)5間、床面積48uで、伊勢遺跡の祭殿とほぼ同じ構造ですが、柱の立て方が布掘り式という伊勢とは違うやり方となっています。柱穴断面が斜めになっているのは伊勢遺跡と同じです。
柱穴には9本のヒノキ柱が残されていました。残りのいいものは直径37cm、長さ80cmもあり、柱の1本からは年輪年代測定法により西暦69年+αとの年代が得られました。

下鈎-1
大型建物1
下鈎-2
大型建物2(テラス付き)

大型建物2は、梁行2間、桁行4間、床面積40uで、柱穴の配置から、吹き抜け構造のテラス付きの建物と推定されます。
伊勢遺跡でもテラス付きと推定される祭殿が見つかっており、テラスで特殊な祭祀を行ったのではないかと考えられます。
青銅器生産
下鈎遺跡は青銅器の保有量が多いことも特徴で、銅鏃、銅釧、銅鏡などが数多く出土しています。銅釧2点の内、1点は直径が13cmもあり、銅釧(腕輪)というより、銅環という方が正しいかもしれません。
銅製品ばかりではなく、銅鏃の未製品が出土しており、銅の残滓、湯玉状銅塊も出ていて、集落内に青銅器の生産工房があった可能性が高いとみています。土製の鋳型外枠が見つかっており、その形状から大型品の鋳造を行っていたことも確実視されています。

銅製品
銅鏃と銅釧
小銅鐸
小銅鐸
鋳型
鋳型と銅残滓
伊勢遺跡との関連
下鈎遺跡は弥生後期初めに衰退した後、伊勢遺跡の盛隆に少し遅れて出現します。このことから、計画的に造営された遺跡であると考えられます。祭祀を行う伊勢遺跡に対し 下鈎遺跡では青銅器を生産する目的で建設されたのではないでしょうか。
独立棟持柱付き建物という括りでは、同じような建物ですが、柱の立て方、心柱など構造は異なっており、別の建築集団が建てたのかもしれません。一方で、テラス付きの高床式祭殿という目的を同じにする建物もあり、連携性が伺われます。
伊勢遺跡と下鈎遺跡は野洲川流域の村々が連携したクニの中心であり、卑弥呼擁立に深くかかわったことは明らかと考えます。

(この項の資料・写真:栗東市教育委員会提供、ただし小銅鐸の写真は滋賀県教育委員会提供)


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