
新着情報
2022.12.18 |
12月18日 「導水施設と水辺の祭祀」のホームページを公開しました
祭政一致の弥生時代、水にまつわる祭祀は首長にとっては重要な祭儀でした。 多くの人々も、水辺で生活に密着した願い、祈りを行っていました。 |
2021.12.10 | 12月10日 「意見の広場」へ「近江の独立棟持柱建物は祭殿か?」を掲載
祭殿かどうかの論議がありますが、近江の建物を掘り下げて分析・検討しました。 |
2021.12.10 |
12月10日 「弥生近江の大型建物」のホームページを公開しました
弥生時代の大型建物が存在していた所の双璧は北九州と近江でした。 特に独立棟持柱建物は近江がダントツで、巨大な祭祀空間を形成していました。 |
2021.1.12 | 1月12日 「マンガ伊勢遺跡」の第3・4話を掲載しました
少し間が開きましたが、伊勢遺跡誕生の秘密が明かされる? |
2020.12.31 | 12月31日 意見の広場へ「巨大地震と邪馬台国論争」を掲載しました
2000年前の巨大地震が及ぼす倭国への影響を加味した邪馬台国論争が必要 |
2020.12.29 | 12月29日 「近江の玉作遺跡」のホームページを公開しました
近江は弥生時代〜古墳時代、「玉製品」の一大生産地でした。 |
2020.4.7 | 4月7日 「マンガ伊勢遺跡」のホームページを公開しました
4コマ漫画と解説用コラムを月1回のペースで開催していく計画です。 |
2020.1.15 | 2月9日 「大岩山と近江の銅鐸」ホームページ公開記念講演会を開催します 終了しました
銅鐸研究の第一人者である難波洋三氏に「銅鐸から見た近江」を講演して頂きます |
2018.12.28 | 12月10日 「意見の広場」へ「大岩山銅鐸はミステリーだらけ」を掲載しました
大岩山銅鐸は不思議いっぱい。状況証拠から「なぜ?」を読み解いてみます。 |
2019.12.10 | 12月10日 「大岩山と近江の銅鐸」のホームページを公開しました
不思議いっぱいの銅鐸からは、歴史の流れを読み解くことが出来ます。 |
2019.6.18 |
下鈎遺跡で青銅製の分銅が見つかっていた 日本初の出土!
弥生後期の遺構から出土した大きな銅環は、中国から伝わった天秤の分銅のようです |
2019.3.3 |
2月6日 NHK歴史秘話ヒストリーで伊勢遺跡が紹介されました
「まぼろしの王国 −銅鐸から読み解くニッポンのあけぼの」として放映 |
伊勢遺跡のここがすごい!
弥生後期に突如現れる巨大祭祀空間の遺跡
伊勢遺跡は、滋賀県守山市伊勢町から阿村町にかけて発見された弥生時代後期の約30ヘクタールに及ぶ大規模な遺跡で、弥生後期としては国内最大級です。
弥生後期、近畿地方では、中期の巨大環濠集落が解体して、小さな集落に分散するなかで、伊勢遺跡のように巨大化する遺跡は稀です。 さまざまな形式の大型建物が計13棟も発見されており、それらが円と方形(発掘はL字形の部分)の組み合わせて計画的に配置されています。 直径220mの円周上に等間隔に配列された祭殿群、中心部には方形に配列された大型建物がならび、柵によって囲われています。そばには楼観が建っています。 大型建物がこれだけ集中して見つかる遺跡は他にはありません。 建物の型式・配列から見て、巨大な祭祀空間が存在していたと考えられています。 |
![]() 【後ろは三上山(近江富士)】 (CG制作:MKデザイン 小谷正澄氏) |
このような大規模な遺跡であるにも関わらず、大勢の人たちが日常的に生活していたような痕跡が見当たりません。大型建物群や周辺の溝からは生活遺物が出てこないのです。その当時の墓地も見つかっていません。このような事実からも、この場所が特殊な位置づけの遺跡であることが推定されます。
中央部の建物群は、魏志倭人伝に【宮室楼観城柵厳設】と書かれている「卑弥呼の居処」と似た構成となっています。 このような建物群からなる遺跡は、卑弥呼が倭国王となる前段階を知る上で、全国的に見ても非常に貴重であることから、平成24年1月に国史跡に指定されました。 |
伊勢遺跡のある場所
伊勢遺跡は滋賀県にあるびわ湖に面した野洲川の下流域平野の守山市にあります。
びわ湖に流れ込む多くの河川のうち最も大きいのが鈴鹿山系を源とする野洲川で、長い歴史の中で流れを幾度も変え、大きな扇状地〜三角州を形作ってきました。そこが守山市です。
伊勢遺跡は守山市の南端から栗東市にまたがる遺跡で、野洲川の扇状地上に形成されています。野洲川下流域の平地や琵琶湖から一段高い位置にあったといえます。
伊勢遺跡へのアクセスはこちらをご覧ください ⇒ 行き方
びわ湖に流れ込む多くの河川のうち最も大きいのが鈴鹿山系を源とする野洲川で、長い歴史の中で流れを幾度も変え、大きな扇状地〜三角州を形作ってきました。そこが守山市です。
伊勢遺跡は守山市の南端から栗東市にまたがる遺跡で、野洲川の扇状地上に形成されています。野洲川下流域の平地や琵琶湖から一段高い位置にあったといえます。

伊勢遺跡へのアクセスはこちらをご覧ください ⇒ 行き方
弥生遺跡の銀座通りともいえるところ
守山市では縄文時代から人々が生活していた遺跡が数多く見つかっています。
弥生時代、まだ農耕技術が未熟だった頃、野洲川の作った三角州は米づくりに都合がよかったのでしょう。多くの弥生遺跡が発見されています。弥生時代も年が進むにつれて居住区域は、びわ湖岸から内陸部に移って行きます。
そうして、その地域を支配・管理する拠点集落が現れます。守山市にはそのような拠点集落がいくつかあって、下之郷遺跡は平成14年に国指定を受け、伊勢遺跡は平成24年に国指定を受けました。
図からも見てとれるように、多くの弥生遺跡が連なっており、「弥生遺跡の銀座通り」ともいえるところです。弥生時代人々がどのような暮らしをしていたか、ここだけでそれが判る貴重な場所です。
弥生時代、まだ農耕技術が未熟だった頃、野洲川の作った三角州は米づくりに都合がよかったのでしょう。多くの弥生遺跡が発見されています。弥生時代も年が進むにつれて居住区域は、びわ湖岸から内陸部に移って行きます。
そうして、その地域を支配・管理する拠点集落が現れます。守山市にはそのような拠点集落がいくつかあって、下之郷遺跡は平成14年に国指定を受け、伊勢遺跡は平成24年に国指定を受けました。
図からも見てとれるように、多くの弥生遺跡が連なっており、「弥生遺跡の銀座通り」ともいえるところです。弥生時代人々がどのような暮らしをしていたか、ここだけでそれが判る貴重な場所です。

(タイトルのCG制作 大上直樹氏)