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 大溝と区画溝
伊勢遺跡では、遺跡の内と外を区切る人工の溝や当時の河の存在が判っています。内部には他の遺跡では類を見ないほど多くの建物が存在する一方、外ではほとんど遺物が出てきません。
また、遺跡内部を区画する溝も存在していました。
この他、円周配列された建物の外側に同心円状に人工の溝が設けられており、溝設置の計画性、さらには「円」を意識した施設配置の意志がうかがわれます。
川と溝で区切たれた遺跡

二つの河に挟まれた伊勢遺跡

伊勢遺跡の南側には幅約30mを測る旧河道が東西方向にやや蛇行しながら伸びています。この川が遺跡の南限となっていますが、遺跡内から出土した筏(いかだ)組みの痕跡をもつ柱根からみて、この河が大型建物の資材の運搬や、船を使用した物流の動脈として機能していたと考えられます。
さらに遺跡の北側にも東西方向に伸びる旧河道の一部が確認されており、遺跡の北限となっていたと考えられます。二つの旧河道の外側には弥生時代の遺構は営まれていません。伊勢遺跡は、東から西へと流れる二つの旧河道に挟まれた舌状に伸びる丘陵上に形成されていました。

いろいろな溝に囲まれていた

遺跡からは、いろいろな溝が検出されています。
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【東限となる大溝】
大溝 遺跡の東側には東西方向に伸びる大溝が検出されています。幅6.5m、深さ2.1mで、断面は深い逆台形をしています。溝底は幅1.1m、深さ0.9-1mのV次形の断面をした溝になっており、二段掘りとなっています。正しく南北方向になっていること、断面形状から考えて人工的な溝と考えられます。弥生時代中期の環濠集落の環濠の多くがV字形になっていることから、逆台形の溝は、濠としての意味合いより、物の運搬や貯蔵のためかも知れません。
この大溝は現在までに実施した調査によって、南北方向に160m以上にわたり直線的にのびていることが判明しています。伊勢遺跡東部の限界となる大規模な区画施設と考えられ、大溝の外(東側)には殆ど弥生時代の遺構は見られません。
【円弧状溝】
遺跡の東側から北に向かう円弧状の溝が見つかっています。東側の大溝からY字状に分岐し、北西方向に伸びている区画溝で、分岐地点あたりでは、幅は3.2m、深さは90cmの逆台形の形状をしています。この辺りでは、溝にそって1m間隔の柵列が見つかっています。 この溝は、北西に延びており、幅が6m、深さ90cmと幅が広がっています。ここらあたりでは、柵列は見つかっていませんが、深く掘れば出てくるのかもしれません。
この円弧状の溝は、円周上に配置されている建物の描く円弧と同心円状に並んでおり、建物と溝の間隔は約40mです。建物円周配列を強く意識し、掘った溝と言えます。柵列は建物を外から見えないように遮蔽するものだったのかも知れません。
さらに、円弧状の溝から約13m内側に、これと並行する幅1m前後の浅い溝があることが判りました。これらから「円」を意識した計画的な施設構築の意志が浮かび上がってきます。
円弧溝
【自然流路(溝)】
遺跡の南側には、遺跡を横断して東から西に流れる自然流路(溝?)が見つかっています。幅3m、深さ40〜80cmの椀状の形状をした流路で、底面には砂礫が多量に出土しており流れが激しかったことが推測されます。
この流路は地形に沿った形で流れていることから、自然流路と判断されますが、流路の一部に手を加えられた形跡があることから、一部、溝として人工的に管理されていたものと思われます。
自然流路
自然流路とクランク溝
しがらみ杭

しがらみ杭

次の節で紹介する「導水施設」は、この自然流路から水を引いており、清浄な水が豊富に流れたいたのでしょう。
自然流路の西端では、溝の中から「しがらみ杭」が出土しています。遺跡の西の区域からは、当時の人々が生活していた住まいや痕跡が見つかっており、「しがらみ杭」は水路を区切って使っていたものでしょう。
この流路から南側には遺跡・遺物がほとんど出ておらず、集落の南限であったと考えられます。
【クランク状溝】
自然流路とその南方の河の間に、クランク状に屈曲する区画溝が見つかっています。溝は幅は約1m、深さは約60cm〜80cmで深い逆台形の形状をしています。見つかっている範囲では、方形区画近辺の自然流路に並行して約75m西に直線的に延び、そこから約105度、急角度に屈曲し南へ92m真っ直ぐ伸び、また80度、鋭角に屈曲して、80m以上掘削されています。この時代には他では見られない遺構です。
自然流路とクランク状溝の間の区画ではまだ明確な遺構は見つかっていません。
【その他の溝】
遺跡のいろいろな場所で、建物や特定の区域を区画したと思われる小さな溝が見つかっています。
また、遺跡の南西部に住居跡に隣接する形で墓域が見つかっています。この墓域には、集落と区画するのが目的と思われる方形の溝が見つかっています。

導水施設

自然流路を水源とする導水施設

伊勢遺跡の南限にある自然水路より水を引いた導水施設が2ヶ所で見つかっています。
この遺構は人工的なもので、北溝と南溝に分かれ、自然流路から取水した水をいったん南溝に溜めて、そのうわずみを北溝から流していたものと考えられます。いわば南溝が浄水施設、北溝が導水路として働いていると考えられます。
南溝は、矢板を打ち、小石や細かい砂で裏込めし(補強し安定させる)、粘土を張り、葦藁(あしわら)の束を敷き詰めた窪みが2基連結しています。取水した水の不純物をここで沈殿させる施設ではないかと考えられます。
この北側からは方形杭列と杭の抜穴と考えられるピットが検出され、東側には部分的に板材と裏込めとみられる小石が認められます。これらは浄化した水を溜める貯水升と推察されます。また、自然流路との合流部にも杭や杭を抜き取ったとみられる小ピットがあり、取水に関する何らかの施設があった可能性もあります。
導水路の北側にも何らかの施設があったと考えられますが、発掘範囲外で判っていません。
これらの遺構は浄水施設と導水路がセットとなり、自然流路から取水した水を浄化し、流す施設と考えられます。

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導水施設の遺構
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浄水部の矢板
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導水施設の平面図
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導水施設の構造図

この施設の西方70mの所にも、よく似た遺構が見つかっていますが、後世に掘削されて詳しい構造は判りません。

導水施設は何のため?

このような導水施設は、古墳時代の遺跡−纒向遺跡や守山市の服部遺跡などの重要な集落遺跡から発見されています。井戸や川から水を引き入れ、貯水した後、ろ過した上澄みの水を流す構造となっており、木樋をつないで水を流す構成になっています。
また、導水施設を模した、囲形埴輪がいくつかの古墳の祭祀域から出土しています。これは、導水施設の上に覆屋(建物)を設け、さらにその周囲に塀を巡らせたものです。埴輪の床部には導水施設が形作られています。この囲形埴輪は実際の導水施設を表しているものと言えます。


導水の囲形埴輪

囲形埴輪の床
(写真提供:松阪市教育委員会)

この囲形埴輪の形状は、建屋の内部に設け、塀で囲った構造で、首長の水の祭祀(聖なる水を得る)に深く関わるものと言われています。このような建物構造は、水の祭祀は秘義であり外から見られないようするためと考えられます。さらには夜間にその儀式は行われたとも言われています。
囲形埴輪の床面の導水施設の形状は、伊勢遺跡の導水施設とよく似ています。ただ、実際に発掘された導水施設は、規模も大きく、木樋の導水路を作るなど、立派な構造になっています。
伊勢遺跡の導水施設は、遺跡の南限近くの自然流路に設置され、大型建物が集中する東の区域からは離れた所に位置します。遺構が希薄で静寂な空間に設けられ、巨大な権力を持つ首長が政治や祭祀を行うにあたって聖なる水を得ていたと考えられます。禊(みそぎ)など身を清める行為が行われていた可能性もあります。

首長がここに居た

上に見たような導水施設は古墳時代の集落跡から十数例発見されています。ただ、このような遺構が弥生時代〜古墳時代の集落跡からよく見つかるものではなく、特異な内容を持つ遺跡から出土していることから、有力な首長の水の祭祀にかかわる遺構である可能性が高いと考えられます。
古墳時代の首長居館に導水施設が取り込まれている例や、囲形埴輪が古墳の祭祀に用いられていることから見られるように、導水施設は、その時代の首長の祭祀に深く関わりを持つ施設であったといえます。
このような事例を見ると、伊勢遺跡の導水施設は、ここに権力を有する首長がいたことを示すものと考えられます。

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