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 下長遺跡
伊勢遺跡の西北、約1.5kmの所に下長遺跡があります。縄文時代から弥生、古墳、平安時代にわたる複合遺跡ですが、突出して栄えるのは古墳時代前期です。
野洲川支流から琵琶湖に通じる湖上運送を担っていたようです。支配者である首長の居館や祭祀に関する遺物・遺跡が出土しています。
下長遺跡の概要
下長遺跡は野洲川の旧主流、境川の左岸に位置する遺跡です。その成立は縄文時代中期にさかのぼります。弥生時代中期の遺構も見つかりますが、いずれも小規模、散在的で小さな集落が短期的に営まれていたようです。
弥生時代後期には旧河道の両岸に竪穴住居などの遺構が見つかり、この時期以降、集落規模が大きくなっていき、周辺地域の拠点集落になっていくようです。
下長遺跡

弥生後期から古墳時代前期の境川は幅が約20mほどで、東側から西側に流れていました。その左岸に首長の居館や祭祀域、祭殿などが存在し、川に沿って交易のための倉庫や交易場所があったと推測されます。川の中からは、水の祭祀の後、川に流されたと考えられる木製品や祭祀具が出土しています。
また、交易品を運んだと考えられる「準構造舟」も出土しています。さらに、広範囲な地域から運ばれて来た土器が見つかっており、地域間交流の拠点、物資流通の要所として機能していたようです。

見つかった2つの祭殿
下長遺跡では、独立棟持柱付き掘立柱建物が川の側より2棟出土しています。
一棟は、弥生後期の建物で、梁行(はりゆき)1間、桁行(けたゆき)3間、床面積36uで、伊勢遺跡の祭殿とほぼ同じ構造の建物です。柱穴も直径1m以上の楕円形で、柱穴断面が斜めになっているのも伊勢遺跡と同じです。
柱穴から出土した土器から、この建物は弥生後期の末には廃絶したものと考えられます。

下長SB-1
弥生時代後期の祭殿
下長SB-3
古墳時代初頭の祭殿
(CG作成 大上直樹氏)

この建物が廃絶した後、隣接してもう1棟の独立棟持柱付き掘立柱建物が古墳時代初頭に造られます。梁行2間、桁行3間、床面積20uで、柱穴の規模や柱の太さはいずれもずいぶん小さくなっています。
弥生後期の建物が直径50cm程の丸柱が使われているのに対し、この建物には、一辺15cm〜20cmの四角い柱が用いられているのが大きな違いです。その柱を観察すると、太い丸太を割って四角い柱に加工したことが分かります。
鉄の道具の普及や建築技術の変化があったようです。
重要な出土物

威儀具(いぎぐ)

威儀具 下長遺跡の首長は野洲川流域を支配する豪族であったと思われますが、出土した威儀具(豪族が権威や勢力を示す持ち物)やそこに施された文様などからは、中央の大和政権ともつながりのある大きな勢力を持っていたと推測されます。
儀仗(ぎじょう)は長さ1.2mで円形の頭部には組帯文(そたいもん)が施されています。刀剣の柄を飾る柄頭は、木製の生地に黒漆を塗り、その上に赤漆で直線と円弧の文様を描いています。
いずれも権威の象徴です。

準構造船

準構造船 準構造船とは、丸木舟に竪板などの部材を継ぎ足すことによって積載量を増大させた船で、造船技術上、丸木舟と板材で建造された構造船との中間に位置することからこう呼ばれています。
下長遺跡から出土したのは舳先(へさき)と丸木を刳り込んだ船底部片、そして船底部片と舷側版(げんそくばん)の結合部片です。復元した長さは6m程度で、海で使われる準構造船に比べると小ぶりです。琵琶湖から川筋に沿って行き来した船と考えられます。
出土した準構造船や倉庫群、各地から来た土器類から、下長遺跡が物資の湖上運送、物資の集積拠点として機能していたことが推測されました。
伊勢遺跡との関連
伊勢遺跡が衰退する時期に下長遺跡は隆盛期を迎えており、栄えた時期には時間差がみられます。あたかも伊勢遺跡の跡を継承するように見えます。
しかしながら、伊勢遺跡が最盛期であった2世紀後半ごろにも、下長遺跡では河川を利用した物資の集散地として機能していたと考えられます。とくに弥生後期に建てられた祭殿は伊勢遺跡で見られる祭殿の様式をとっており、伊勢の影響が色濃く映っています。
豪族としての首長がいない状態で、物資の集散、交易の拠点として伊勢遺跡と機能分担していたと考えられます。伊勢遺跡の終焉とともに大和王権がスタートし、そこへの物資供給の拠点として重要性が増し、運用管理のための支配者が現れ、隆盛を極めたと思われます。


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