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新着情報
 2016.5.22 5月12日、13日 物部小学生、伊勢遺跡で現地学習会
遺跡の見学や弥生時代の人々の生活や文化について理解を深めました
 2016.5.22 4月17日 伊勢遺跡保存会の歴史研修会が開催されました
小谷城戦国歴史博物館と国友鉄砲の里資料館を訪問
 2016.5.20 5月22日 歴史講演「卑弥呼の墓は近江にある? 〜伊勢遺跡で何が行われたのか〜」を開催します
NPO総会の後、会員の佐藤明男氏による講演を行います
 2016.3.28 2月28日「野洲川下流域の弥生遺跡」HPの公開記念講演会を開催しました
森岡秀人さんの講演「倭国形成に向けての近江の役割」はよく判ると好評でした
 2016.3.1 2月12〜14日 中井純子ホームページ原画展を開催しま した
ホームページの挿絵の原画を多くの方に見て頂きました
 2016.3.1 11月7日、2月13日 勉強会「魏志倭人伝を読み解く」を開催しました
第1回「邪馬台国への行程を読む」、第2回「卑弥呼の外交記録を読む」

 伊勢遺跡のここがすごい!
弥生後期に突如現れる巨大祭祀空間の遺跡
伊勢遺跡は、滋賀県守山市伊勢町から阿村町にかけて発見された弥生時代後期の約30ヘクタールに及ぶ大規模な遺跡で、弥生後期としては国内最大級です。
弥生後期、近畿地方では、中期の巨大環濠集落が解体して、小さな集落に分散するなかで、伊勢遺跡のように巨大化する遺跡は稀です。
さまざまな形式の大型建物が計13棟も発見されており、それらが円と方形(発掘はL字形の部分)の組み合わせて計画的に配置されています。
直径220mの円周上に等間隔に配列された祭殿群、中心部には方形に配列された大型建物がならび、柵によって囲われています。そばには楼観が建っています。
大型建物がこれだけ集中して見つかる遺跡は他にはありません。
建物の型式・配列から見て、巨大な祭祀空間が存在していたと考えられています。
遺跡の全体

伊勢遺跡の建物(復元想像図)
【後ろは三上山(近江富士)】
(CG制作:MKデザイン 小谷正澄氏)
このような大規模な遺跡であるにも関わらず、大勢の人たちが日常的に生活していたような痕跡が見当たりません。大型建物群や周辺の溝からは生活遺物が出てこないのです。その当時の墓地も見つかっていません。このような事実からも、この場所が特殊な位置づけの遺跡であることが推定されます。
中央部の建物群は、魏志倭人伝に【宮室楼観城柵厳設】と書かれている「卑弥呼の居処」と似た構成となっています。
このような建物群からなる遺跡は、卑弥呼が倭国王となる前段階を知る上で、全国的に見ても非常に貴重であることから、平成24年1月に国史跡に指定されました。

伊勢遺跡のある場所
伊勢遺跡は滋賀県にあるびわ湖に面した野洲川の下流域平野の守山市にあります。
びわ湖に流れ込む多くの河川のうち最も大きいのが鈴鹿山系を源とする野洲川で、長い歴史の中で流れを幾度も変え、大きな扇状地〜三角州を形作ってきました。そこが守山市です。
伊勢遺跡は守山市の南端から栗東市にまたがる遺跡で、野洲川の扇状地上に形成されています。野洲川下流域の平地や琵琶湖から一段高い位置にあったといえます。
守山の地図

 伊勢遺跡へのアクセスはこちらをご覧ください ⇒ 行き方

弥生遺跡の銀座通りともいえるところ
守山市では縄文時代から人々が生活していた遺跡が数多く見つかっています。
弥生時代、まだ農耕技術が未熟だった頃、野洲川の作った三角州は米づくりに都合がよかったのでしょう。多くの弥生遺跡が発見されています。弥生時代も年が進むにつれて居住区域は、びわ湖岸から内陸部に移って行きます。
そうして、その地域を支配・管理する拠点集落が現れます。守山市にはそのような拠点集落がいくつかあって、下之郷遺跡は平成14年に国指定を受け、伊勢遺跡は平成24年に国指定を受けました。
図からも見てとれるように、多くの弥生遺跡が連なっており、「弥生遺跡の銀座通り」ともいえるところです。弥生時代人々がどのような暮らしをしていたか、ここだけでそれが判る貴重な場所です。

守山の遺跡


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(タイトルのCG制作 大上直樹氏)